道路重視期のトルコ国鉄

新しい鉄道プロジェクト

1963~1980年の期間の道路建設は、計画整備の時代と分類される。道路単体での整備よりも、発電所や工業団地といった産業インフラを整備する計画の一環として、建設が行われる傾向が強まった。

一方、1950年代以降の鉄道建設は非常に限られていた。だが数少ない事業のいくつかは、道路建設と同じように、産業インフラ整備の一部を構成する性格を帯びていた。

セイトメル線

キュタフヤ、セイトメル位置図

1962年に完成したキュタフヤ(Kütahya)-セイトメル(Seyitömer)間26.5kmは、炭坑開発から火力発電所建設までを含めた開発計画の一部として建設が進められた。セイトメル炭坑公社、電力生産公社の2つの国営企業がこの開発計画の主軸となった点にも、国策プロジェクトという性格が窺える(トルコでは国営企業の優勢は特に珍しくないが、この問題は稿を改める)。

電力生産公社の施設は、当時のトルコとしては大規模なものであった。1970年代には3基の発電ユニットが、1980年代後半にはさらにもう1基150MW級の発電ユニットが増強され、計600MW級の発電プラントが完成している。1990年代初頭には、セイトメルの発電プラントがトルコの電力生産のうち、4.6%を占めるまでに至った。

さて、交通政策が道路中心に傾くなかで、このセイトメル線が鉄道として建設されたことは、かなり目立っている。26kmあまりの比較的短い距離をわざわざ鉄道によって連絡することは、一見すると意義が薄いようにも感じられる。この背景として、2つの要因が考えられる。

まずひとつは規模の大きさである。年間600万トンを産出するセイトメルは、トルコにおいて最大級に分類される炭坑のひとつだ。大規模炭坑のうち、鉄道網から離れているムーラ県の炭坑は未だに鉄道連絡されていないが、その他の炭坑は早い段階で鉄道路線が接続されていたことから、セイトメル線の建設にも十分な合理性を認められる。

しかし、より重要と思われるのは、周辺地域の炭坑の存在とそれらを連絡する鉄道網である。

セイトメルの近隣、同じキュタフヤ県のトゥンチビレッキ(Tunçbilek)にも大規模な炭坑が存在し、1944年には鉄道連絡が実現していた。また、キュタフヤからはバルケシル(Balıkesir)への路線が延びているが、この路線がバルケシルで接続するイズミル(İzmir)方面への路線上のソマ(Soma)にも、大規模な炭坑が存在している。

こうした周辺の炭坑からアンカラ(Ankara)、イズミルといった大都市へ向け、鉄道による輸送経路がすでに確立していた。セイトメルへの路線が分岐するキュタフヤはこの輸送経路上にあり、鉄道との接点を持たせることで容易に産出物を大都市に輸送できるようになっていた。

セイトメル線が完成した時点ではすでに、国内交通の重点は道路に移行していた。しかし、わざわざ新しい輸送システム-道路-に依存させる必要性は乏しく、むしろ既存の輸送システムである鉄道を活用する方法が選ばれた。

東南アナトリア開発のスタート

東南部の開発はトルコ共和国成立当初からの課題であった。鉄道についても、地中海沿岸のアダナ方面から東南部に延びるディヤルバクル線や、ディヤルバクル線と接続してアンカラ方面との連絡を実現するチェティンカヤ(Çetinkaya)-マラティア(Malatya)間は建設が急がれた路線であり、1930年代にほぼ完成していた。

一方、東南部の開発の柱として、ユーフラテス、チグリスの水資源を活用する構想が早い段階から準備されていた。1936年には電力調査機構(Elektrik İşleri Etüd İdaresi)が設立され、開発の基礎的な調査に着手している。続く1938年にはケバン(Keban)付近の調査が開始された。

これらの計画は第二次世界大戦期を挟む時期、いったん停滞していたが、戦後実現に向けて本格化し始める。1954年の水資源局(DSİ: Devlet Su İşleri Genel Müdürlüğü)、1961年のユーフラテス計画局(Fırat planlama Amirliği)の設立を経て、まずはケバン・ダム(Keban Barajı)の建設から着手された。

ケバン・ダムの建設に伴い、付近を通過するトルコ国鉄の路線は水没することになった。水没する区間を迂回するために、1973年には一期工事として47kmの区間が、1982年には二期工事として約10kmの区間が新線に付け替えられている。

東南部の開発計画はのちに、東南アナトリアプロジェクト(GAP: Güney Anadolu Projesi)として発展し、さらに拡大している。鉄道に関連する事業はごくわずかであるものの、上記のような事業に伴う影響も生じた。また、建設資材の輸送においては、ディヤルバクル線をはじめとする鉄道が活用された。

通勤輸送への進出

イスタンブル、アンカラ両都市における通勤輸送の本格化も、1950~70年代に進められたプロジェクトのひとつである。

これら通勤輸送に関わる設備は、既存路線の複線化、電化といった形で整備された。後述するアンカラ-イスタンブル間の改良工事と工事区間が重複する部分も多く、設備の面からはまったくの新規プロジェクトとは言えないかもしれない。

しかし、それまでの時代には、もっぱら長距離を移動するための交通手段だった鉄道が、郊外から都心への通勤輸送にも活用されるようになるという大変革をもたらした。通勤列車も伝統的な鉄道の使命である長距離列車と同じ線路を走ってはいるが、目的が大幅に異なっているという意味では、新しい路線として分類する方がより相応しいと考えている。

アジア側、ヨーロッパ側に郊外電車が延びるイスタンブル。

イスタンブル近郊では1949年にヨーロッパ側、アジア側の双方で複線区間が延長されている。続く1955年にはヨーロッパ側で電化工事が完成し、これを受けてヨーロッパ側のシルケジ(Sirkeci)-ハルカル(Halkalı)間28kmで郊外電車(banliyo tren)の運行を開始している。この整備区間は当時の市街地の広がりから考えて、十分な範囲をカバーしていたと考えられる。運行区間が今日(2004年)まで変わっていないことは、半世紀前に完成したこのプロジェクトの先見性を示しているといえよう。

一方、イスタンブルのアジア側では電化工事が遅れたため、郊外電車の運行は1969年より開始されている。アジア側ではハイダルパシャ(Haydarpaşa)-ゲブゼ(Gebze)間44kmに郊外電車が運行されるようになったが、こちらの区間も今日まで変更されていない。

アンカラでは市街の東西に郊外電車が延びる。

アンカラでは1970年にアンカラ駅を挟むシンジャン(Sincan)-カヤシュ(Kayaş)間36kmの複線化工事が完成する。1972年に同区間の電化工事が完成したことで、郊外電車の運行が実現した。アンカラではのちに複々線化工事も行われ、さらなる拡充が図られている。このプロセスには日本の支援も行われた。

こうした通勤輸送の拡充もまた、産業基盤整備の一環としてとらえることができる。郊外電車は1976年から1995年までの長期にわたり平均乗車率100%以上を記録し続けた。地味な分野ではあるものの、極めて有効な投資であったと評価することができよう。

しかし残念なことに、長年活躍してきた郊外電車もそろそろ再度の整備が求められる時期になってきたようだ。未だに活躍を続ける1950年代の電車には-堅牢な作りではあるものの-空調設備も装備されていない。長期間活用できる優秀な事業ではあったが、さすがに時代の要請に応えられていない感が否めない。