道路重視期のトルコ国鉄

バグダッド鉄道の再構築

オスマン帝国期に建設が始まった鉄道網の一部は、新しい共和国の国境線の外に置かれてしまうことになった。そのため、トルコ国内の都市どうしを結んでいるにもかかわらず、外国の領域を通過せざるを得ないルートが発生した。このうちエディルネ付近の回廊区間については別項目で紹介しているところである。

実は、エディルネ付近の他にももう1カ所、トルコの鉄道網から分断された区間が生じていた。トルコ東南部、シリア国境沿いの路線だ。

切り離されたシリア

コンヤ(Konya)からバグダッドを結ぶバグダッド鉄道の一部として計画が進められた鉄道路線は、アレッポ付近を経由するルートをとっていた。山岳部を迂回できるほか、大都市アレッポを経由させることに価値が見出されたのであろう。

アレッポ周辺は第一次世界大戦後、シリア(フランス委託統治領)の領域に組み込まれた。トルコ-バグダッドを結ぶ鉄道のうち、メイダンエクベズ(Meydanekbez)からアレッポ付近を経て、チョバンキョイ(Çobanköy)までがシリア領となり、チョバンキョイ-ヌサイビン(Nusaybin)間が、トルコ領でありながらその他の路線から孤立した。

しかしトルコ政府は-エディルネの回廊区間解消にも熱心ではなかったが-共和国成立からしばらく続いた鉄道建設を積極的に進めた時期にも、この区間を急いだ様子がない。孤立していた区間は1948年までトルコの所有ではなく、フランス資本のトルコ南方鉄道(Cenup Demiryolları)が営業権を保持していたことも一因と考えられる。

だがエディルネのケースと異なり、こちらの区間では回廊を解消するためのルート上にガジアンテップという目立った都市がある。トルコの鉄道ネットワークにガジアンテップを接続する意味でも、早期に建設を進める価値は見いだせたように思われる。

路線図

ハタイ(Hatay: クリーム色)は、1939年にトルコ共和国に編入される。

シリアの独立と新規路線

アレッポは1946年にフランスから独立したシリアの領域となる。その後、1958年3月にはエジプトとの合邦が行われ、アラブ連合共和国の領域となったが、この合邦はわずか4年間で解消した(1962年4月)。これに先立つ時期にもクーデターが頻発しており、独立シリアの船出には波乱が続いた。

この時代になってようやく、トルコ側では孤立した区間と国鉄ネットワークの接続に着手する。メルシンやアダナからマラティアへ向かう幹線上のナルル(Narlı)を分岐点とし、ガジアンテップ経由で東南部の鉄道と接続するカルカムシュ(Karkamış)までの路線だ。

まず、1953年にナルル-ガジアンテップ間84.1kmが開通している。その後1960年にカルカムシュまで90.9kmの延長が完成し、孤立区間は解消された。孤立区間がトルコ南方鉄道よりトルコ国鉄に移管されてから、12年が経過していた。

参考までに、新しいガジアンテップ経由の路線が分岐するナルルは、アダナ-マラティアを結ぶ路線上に位置しているが、この路線もフェヴジパシャ(Fevzipaşa)以東は共和国が成立してから建設されている。しかし、こちらは1931年にすでにマラティアまで完成しており、ガジアンテップ方面とは格段の開きがある。

さて、この連絡線が利用できるようになったことで、トルコ領内からイラクへの列車は1回の国境通過のみでイラクに入国できるようになった。シリア国境を2度通過するアレッポ回りから開放され、トルコにとって利用価値の高い「新バグダッド鉄道」のルートが構築されたと言うこともできる。

このプロジェクトが進められた1950年代、トルコの鉄道に関する事業は、その後に続く「道路重視期」の中でも、とりわけ限定されていた。1950~1960年の間に、まったくの新規に開業した区間は298.9kmであり、その半分以上をこのナルル-ガジアンテップ-カルカムシュ間が占めた。政情不安が続く独立シリアを経由するルートを早期に解消する要請が、集中的な投資を後押ししたとみられる。

アラブ連合共和国の時代も含め、シリアと西側諸国の関係は芳しいものではなかった。一方トルコでは、マーシャルプラン以降、西側諸国、とりわけアメリカ合衆国との関係が緊密になっていた時期である。両国の立場は大きな隔たりをみせるようになっていた。

路線図