アタテュルクの鉄道網

黒海・地中海・内陸アナトリア

内陸の都市が沿岸部と連絡されていないことは、鉄道政策の課題として共和国成立時から指摘されていた。トルコ共和国政府は早い段階でこれら路線の建設に着手し、1930年代にはアウトラインが完成した。

内陸と港湾を連絡する路線は、トルコの地図を大きく塗り替えることになる。

内陸を目指した鉄道建設

沿岸部から内陸に向けた鉄道建設のうち、もっとも早い時期に開業を見たのがサムスン(Samsun)からシワス(Sivas)に至る路線である。この路線は黒海沿岸の街サムスンを工事の起点としており、既存の鉄道網との接続には時間を要した。しかし、1926年には最初の開業区間であるサムスン-カワック(Kavak)間47.6kmが開通している。

工事はその後シワスに向けて継続され、1932年にシワス郊外のカルン(Kalın)で、コーカサス幹線と接続された。黒海沿岸のサムスンが、鉄道により首都アンカラと連絡されたことになる。

内陸を目指した路線のうち、もう一つの柱がアダナ方面から東南部に向かうディヤルバクル線だ。バグダッド鉄道として建設された路線のフェヴジパシャ(Fevzipaşa)から順次延長されて行き、1931年にはマラティアまでの区間が開業を迎えた。

開業時期はやや遅れたが、さらにもうひとつ、黒海と内陸を連絡する路線が建設されていた。アンカラの東方ウルマック(Irmak)とゾングルダク(Zonguldak)を結ぶ路線だ。この路線はゾングルダクの炭坑から新興の首都アンカラへ石炭を輸送する性格が強い。

結ばれた黒海と地中海

鉄道政策の課題として内陸と沿岸部の連絡が主張され、これに基づく新規路線が開業していった。しかし、内陸と沿岸部を結んだ鉄道には、より重要な意味合いがあったと筆者は考えている。地中海と黒海の連絡である。

サムスン-シワス間の全線開通から遅れること1年、カイセリ近郊のボアズキョプリュ(Boğazköprü)からウルクシュラ(Ulukışla)までの路線が1933年に開通している。この路線の完成により、黒海沿岸のサムスンから地中海東部のメルシン、アダナまでが鉄道連絡されたことになる。

黒海・地中海連絡ルート。

地図:黒海、地中海間の連絡ルート。

バイパス・ルート

一方、フェヴジパシャから内陸に向かって建設されたディヤルバクル線のマラティアからは、シワス方面への路線が完成を迎えつつあった。チェティンカヤとマラティアを結ぶ区間だ。「東南部路線」の項でも述べたが、この区間にはアンカラと東南部を連絡する意味もある。同時に、地中海と黒海を連絡する路線のバイパスとしても機能したと考えられる。

地中海と黒海を連絡する路線の基本は、メルシンあるいはアダナ-ウルクシュラ-カイセリ-シワス-サムスンのルートだ。しかしこのルートには、非常に急峻な区間が存在するという問題があった。イェニジェ(Yenice)-ウルクシュラ間、108kmの区間だ。

メルシンとアダナの中間にあるイェニジェより線路は内陸へ向け北上し、ウルクシュラに至る。地中海岸に近いイェニジェの標高は海抜わずか34mであるが、ウルシュクラでは1427mに達する。トルコ国鉄では随一の急勾配が連続する区間であり、蒸気機関車が主力であった時代には、輸送上の大きな障害になっていた。

この区間を建設したのはドイツ資本のバグダッド鉄道会社であった。同社はバグダッドに線路を延ばすことなく、第一次世界大戦でのドイツ敗戦を迎えた。しかし、もしこの難工事区間を回避する選択をしていたとすれば-例えば、マラティア、ディヤルバクル、マルディンを経由してイラクに至るルート-世界史は書き変わったかもしれない。

海峡問題

ボスポラス、ダーダネルス両海峡の存在が、トルコ共和国の地政学上の地位を高める重要な要素のひとつであることを否定する向きは少ないであろう。20世紀初頭まで、「海峡問題」と言えば自動的にこの海峡に対する支配権をめぐる問題を指すものであった。

ローザンヌ条約(1923年)によって、海峡は新しい共和国に引き継がれることとなった。しかしローザンヌ条約では、海峡周辺は非武装地帯とされており、トルコ共和国による海峡に対する支配権は十分なものとは言えない状態であった。後年のモントルー条約(1936年)によってようやく、海峡への軍事力配備が可能となるとともに、通航に関わる取り決めが整えられた。

黒海と地中海を連絡する鉄道は、海峡を通過しての航路を代替する機能も果たしたと考えられる。1933年、ボアズキョプリュ-ウルクシュラ間が開業したことで、黒海沿岸のサムスンから地中海沿岸の港町メルシンまでは914kmの鉄道ルートで連絡された。鉄道ならばほぼ一昼夜で連絡できる距離であり、ボスポラス、ダーダネルスを経由した航路とは格段の開きがある。

このような黒海、地中海間の鉄道連絡が完成していたことは、モントルー条約の内容にも影響を与えたのではないかと考えている。1936年にはウルクシュラ経由のルートが利用可能になっていたほか、前述したマラティア経由のバイパス・ルートも完成が近づいていた。さらに、黒海側に到達するもう一つの路線、ウルマック(Irmak)-ゾングルダク(Zonguldak)間も全通目前であった。


一連の新規路線建設により、「内陸の都市と沿岸部を結ぶ」という当初の目標は達成された。しかし、完成した鉄道網を見てみると、より大きな目標が地中海と黒海の連絡だったことが浮かび上がってくる。