アタテュルクの鉄道網

新しい国のかたち

アナトリア(小アジア地域)、トラキア(ヨーロッパ側の地域)を領域とする国民国家として、トルコ共和国は成立した。広大な領域を前提としていたオスマン帝国時代の国の基盤は、まったく新しいものに作り替えられることになった。

首都アンカラ

トルコ共和国の首都はアンカラ(Ankara)に置かれた。オスマン帝国の首都であったイスタンブル(İstanbul)は相変わらず最大の都市であり続けたが(今日なお最大の都市であり続けている)、3%のトラキアと97%のアナトリアからなるトルコ共和国において、イスタンブルの位置が国土の中心から大きく外れていることは否めない。

バルカン半島やギリシャを擁していた最盛期のオスマン帝国では、イスタンブルの西にも広大な領土が存在していた。しかし、新生トルコ共和国において、イスタンブルの西側にある領土はごくわずかである。

当然のように、トルコ共和国はアナトリア-小アジア-に基盤を置く国家として成立している。アナトリア(Anadolu)を冠した団体名や企業名には、オスマン帝国ではなくトルコ共和国に帰属することを象徴する意味がある。イスタンブルを根拠とするオスマン帝国の残存勢力の影響力を小さくするためにも、首都をアンカラに置くという選択は避けられなかったといえる。

共和国が成立した当時、新首都アンカラはイスタンブルおよびエーゲ海岸のイズミル(İzmir)から東へ延びた鉄道の終着駅だった。アンカラより東の地域は、大部分が鉄道網の空白地帯であった。

鉄道網の地域格差

トルコ東部に鉄道路線はほとんどなかった。

地図:共和国成立時(1923)の鉄道網。トルコ東部の路線はごくわずかであった。この地図では340kmあまりが存在した狭軌(線路の幅が標準より狭い)の鉄道路線は省略している。クリーム色に着色してあるハタイはシリア(フランス委託統治領)の領域であり、1939年にトルコ共和国に編入された。

共和国成立時のトルコにおける鉄道網は、おおむね国土の西部に限定されていた。例外は2つの路線のみであった。

例外の一つ目はコンヤからアダナを経由しシリア国境沿いの地域を結ぶ路線である。バグダッド鉄道の一部として計画・建設が進められたこの路線は、首都アンカラやイスタンブルと地中海沿岸との連絡を可能にするものであり、トルコ共和国にとっても利用価値を見出せる路線だったと言える。

建設の経緯からも想像がつくように、この路線はトルコ東南部を経てイラクへ続いている。途中経由するトルコ東南部では、比較的大きな都市であるシャンル・ウルファ(Şanlıurfa)の近郊を通過するとともに、マルディン(Mardin)への支線も完成していた。

しかし、この路線は2つの問題を抱えていた。まずひとつ目は路線の帰属の問題である。この路線は国有化が最も遅れた。曲折を経たが結局、アダナ東方の駅、フェヴジパシャ(Fevzipaşa)より東の区間はフランス資本のトルコ南方鉄道(Cenup Demiryolları)が1948年まで営業権を保持する契約となった。そして、バグダッド鉄道の再構築で詳細に触れるが、トルコ共和国の国境線の中には全区間が収まらなくなり、途中シリアを経由せざるを得なくなっていた。

もう一つの例外はソ連(アルメニア)からトルコ領内のサルカムシュ(Sarıkamış)まで延びていた路線である。こちらはトルコの鉄道網とまったく接点を持たない孤立した区間であったことに加え、他の鉄道路線とは異なる1524mmゲージ(線路の幅。他の鉄道路線の標準は1435mm。)で建設されていた。少なくともトルコ共和国が成立した時点では、めぼしい利用価値が見出せないものであった。

鉄道網の恩恵を受けていた地域はエーゲ海・マルマラ海沿岸からアンカラまでに限られていた。トルコ共和国の半分以上を占める内陸アナトリアや東部は、鉄道網の範囲外に置かれていた。

黎明期の鉄道政策

成立したばかりのトルコ共和国は、国民経済の育成および新しい共和国の体制を確立するという課題に直面していた。これらの課題を解決するため、鉄道政策には以下のような指針が掲げられた。

具体的に政策を推進するにあたり、障害となっていた問題は2つの領域に分けられる。ひとつは外国資本が関与して建設・運営されていた鉄道路線の国有化である。

共和国成立の翌年、外国資本の鉄道会社を国有化する506号法案が成立する(1924年5月24日)。これを受け、アナトリア-バグダッド鉄道総局(Anadolu-Bağdat Demiryolları Müdüriyeti Umumiyesi)が発足し、差し当たり共和国の所有となった鉄道路線の運営および新規路線建設にあたった。

この組織はほぼ3年後の1927年5月31日に成立した1042号法案により、国営鉄道・港湾総局(Devlet Demiryolları ve Limanları İdare-i Umumiyesi)に発展・改組する。既存の鉄道路線の国有化手続きは依然進行中であったが、トルコ国内の鉄道、港湾が統合的に運営されることになった。鉄道と港湾を一体化し運輸ネットワークを構築するというトルコ国鉄の原型が姿を現した。

鉄道路線の国有化は順次進められ、1948年に完了している。しかし、既存の鉄道路線が国有化されていった経緯には不明な点が非常に多い。トルコ国鉄の統計資料、政府機関の資料などを摺り合わせることにより、各路線が国有化された時期はほぼ確定できたものの、契約条件や交渉過程といった分野については、めぼしい資料をほとんど発見できていないのが実情である。当時の関係者の年齢を考慮すると、聞き取りによる調査も困難とみられ、永久に解き明かされない争点も多くなりそうだ。

もうひとつの問題は鉄道路線網の恩恵を受けていなかった内陸アナトリアや東部の都市への連絡であった。この問題を解決するためには、大規模な新規路線の建設が必要とされた。

鉄道政策全体の指針と重なる部分もあるが、新しく建設に着手した路線の性格は、おおむね以下の3タイプに分類できよう。

  1. 東部、東南部の各地を首都アンカラ、ならびにイスタンブルと連絡する路線。
  2. 地中海沿岸、黒海沿岸と内陸部を連絡する路線。
  3. 既存の鉄道網を補完する路線。

1番目、2番目のタイプについては、両者にまたがる性格で建設された区間もある。また、3番目のタイプは、すでにある程度の鉄道網が整備されていたトルコ西部の路線である。

次節以降、新規に建設された路線をみてゆく。