アタテュルクの鉄道網

既存鉄道網の補完

オスマン帝国時代にすでに、トルコ西部には一定の規模を持った鉄道網が構築されていた。外国資本が関与する中で建設されたこれらの路線だが、トルコ共和国にとっても十分な価値のある路線である。

既存の鉄道網は若干の新設区間を追加されることで、新しい共和国にとってより使い勝手の良いものに改良された。

トルコ西部の鉄道網。

地図:トルコ西部の鉄道網と共和国後の建設区間。

ショートカット路線の建設

共和国成立後、トルコ西部で最も早く着手されたのが、キュタフヤ(Kütahya)とバルケシル(Balıkesir)を結ぶ路線である(253km)。工事はキュタフヤ側から進捗し、1932年にバルケシルまでの全区間が開通した。

共和国成立時にはすでに、アンカラとエーゲ海沿岸のイズミルは、鉄道により連絡されていた。にもかかわらず工事が急がれた意味は、この路線単体では分かりにくい。

理由のひとつは、周辺に有力な炭坑を抱えていたことにある。後年支線が追加された沿線のトゥンチビレッキ(Tunçbilek)やセイトメル(Seyitömer)のほか、バルケシルで接続するイズミル-バンドゥルマ線のソマ(Soma)付近にも大規模な炭坑が存在している。このショートカット路線を建設することで、これらの炭坑をアンカラ、イズミルと直結することが可能になった。また、若干大回りのルートにはなるが、イスタンブルへの鉄道輸送路も改善されている。

一方、共和国成立時に完成していた鉄道路線でアンカラとエーゲ海沿岸のイズミルを連絡する場合、エスキシェヒル(Eskişehir)でアンカラ-イスタンブルを結ぶ幹線から分岐し、アフヨン(Afyon)、ウシャク(Uşak)、マニサ(Manisa)を経由しイズミルに到達するルートを辿ることになる。しかし、途中アラシェヒル(Alaşehir)付近には急勾配区間があった。

アンカラ-イズミル間の距離は、旧来のアフヨン、ウシャクを経由するルートが853kmなのに対し、新設されたキュタフヤ-バルケシル間を経由するルートを経由しても825kmまでにしか縮まっていない。だが、キュタフヤ-バルケシル間の路線を建設したことにより、急勾配区間を回避できるようになっている。

キュタフヤ-バルケシル間に続き、アフヨン(Afyon)-カラクユ(Karakuyu)間112.4kmが、1936年に開業している。この区間の開業により、アイドゥン(Aydın )、デニズリ(Denizli)、ウスパルタ(Isparta)といった地域がアンカラと直結された。それまでイズミル経由に頼っていたアンカラへの鉄道経路は大幅に短縮されている。

これらのショートカット路線が完成したことにより、アンカラとエーゲ海沿岸の間には、三重のルートが確保されたことになる。しかしいずれのルートも、キュタフヤ近郊のアラユルトからアンカラまでは、同じ路線を共有していた。

支線の建設

ショートカット線のほか、既存の鉄道網をより使いやすく改良するため、いくつかの支線も建設されている。

イズミルからデニズリ付近を経由しエーイルディール(Eğridir)までを結んでいた路線には、ボザンオニュ(Bozanönü)-ウスパルタ(Isparta)間13.4km、ギュミュシュギュン(Gümüşgün)-ブルドゥル(Burdur)間23.9kmの2つの支線が追加された(1936年)。ウスパルタ、ブルドゥルともに、この地域の有力な都市であり、支線の建設にはそれなりの意味があったと評価できる。

しかし建設区間は短く、既存の鉄道網に微調整を加えた程度に過ぎない。外国資本による建設だったとはいえ、これまでに建設されていた鉄道網が、相当効率的であったことを示している。

なお、前述したキュタフヤ-バルケシル間の路線には、1944年、タウシャンル(Tavşanlı)-トゥンチビレッキ間13.4kmの支線が追加されている。この路線はトゥンチビレッキの炭坑からの輸送を目的としていた。

植民地型鉄道建設との相違

インド亜大陸の例に顕著なように、港湾(沿岸部)と内陸を結ぶ鉄道は、しばしば植民地型の鉄道として認識される。しかし少なくともトルコの場合、事情が異なっていたように思われる。

トルコ西部、主としてイズミルなどエーゲ海沿岸から内陸への鉄道路線は、「病人」と揶揄されるほどに弱体化していたオスマン帝国を、ヨーロッパ列強の資本が蚕食しようとした産物のように見えないこともない。しかし、トルコ共和国が独自に建設した路線をみていると、外国資本の介入が建設の順序を変えたとは考えにくくなってきた。

共和国成立後の国境線を前提とすれば、トラキア(ヨーロッパ側)のオリエント・エクスプレスのルートや、バグダッド鉄道の一部となる区間は、優先順位が低く見える。しかし、これらの路線はオスマン帝国の国境線を前提に、早期の着手が行われたものだ。東部の路線はトルコ共和国になってから建設を急いだ区間だが、これもまた共和国の国境線を前提としてはじめて、優先順位が上昇したように見える。

そして、共和国成立後のトルコもまた、ヨーロッパ列強の資本によるものと同じように、港湾から内陸への路線を建設している。共和国の首都が内陸のアンカラに置かれたことが影響している部分もありそうだが、路線の性格としては「植民地型」の鉄道とさほど変わり映えしないのではないだろうか?

さらに、外国資本により作られたトルコ西部の鉄道網は、共和国成立後今日まで、目立った変更が行われていない。沿線の都市や産業拠点を直結する路線が追加されたり、急勾配区間の回避策が実施されたことは前述したとおりだが、あくまでも既存鉄道網の改良に止まっている。

トルコにおける鉄道建設をめぐり、経済上の利益を追求するためのヨーロッパ列強による争いはあった。しかし、それ以上の戦略的意味を持って鉄道が走り始めたのは、トルコ共和国の成立以降なのではないかと筆者は考えるようになってきた。

そのための意志決定は、外国の列強ではなく、トルコ共和国により行われた。