エディルネ:国境と線路

バイパス路線建設の遅れ

一見すると、バイパス路線の建設がここまで遅れたことは不可解である。輸送上の不便が目立っていなかったとしても、トルコ、ギリシャ両国の関係は決して安定したものではなかったわけで、国境線の確定以後、速やかに回廊を解消する路線を建設していても何ら不思議ではない。

少なくとも共和国成立(1923)から1940年前後まで、トルコは鉄道路線の建設に非常に熱心であった。1923年には1378kmにすぎなかったトルコ国鉄の路線長は、1941年には7009kmまで達している(ただし、この数字は私鉄の買収を含んでいる)。

しかし、重点は黒海と内陸の連絡、およびアンカラとトルコ東部・東南部の連絡に置かれていた。エラズー(1934年)、ディヤルバクル(1935)、エルズルム(1939年)と、東部や東南部の各地を結ぶ路線は、まさに破竹の勢いで建設が進められた。また、1933年には、既存の路線とあわせ黒海沿岸のサムスン(Samsun)から地中海沿岸までの連絡も完成している。

こうした積極性にもかかわらず、エディルネ付近の回廊区間はなぜ後年まで解消されなかったのだろうか?筆者がその理由として考えているのは、トルコの政策的な事情、とりわけ外交上の戦略である。が、そうした事情について稿を改めて記述する。

さて、オスマン帝国2番目の首都を勤めたエディルネが、歴史ある都市であることは言うまでもない。だが、共和国成立後のトルコにおいて、エディルネは国境地帯の「辺境」に転落してしまったと考えざるを得ない。政策上の理由と相まって、こうした「辺境性」も、バイパス線路建設を遅らせた無視できない要因であろう。

鉄道が建設された時期には、オリエント・エクスプレスが通過するルートという華々しい性格があった一方で、帝国領内の連絡という性格も認識されていたように思われる。エディルネは鉄道建設以前と同様に、イスタンブルとバルカンの帝国各地を結ぶ交通の要衝であった。ところが、新しい国境線に囲まれたトルコ共和国の地図の中では、どれほどの歴史的価値を主張したところで辺境の一都市にすぎない。