アタテュルクの鉄道網

鉄道網の空白を埋める

アンカラ以東のトルコが、鉄道網の恩恵をまったくといって良いほど受けていなかったことを前節で述べた。この広大な鉄道空白地帯を解消すべく、共和国政府は大々的な新規路線の建設に取りかかる。真新しい線路が東へ延びていった。

トルコ東部の鉄道建設。

地図:トルコ東部における鉄道建設。標準軌に変更された狭軌路線は改築の年で分類している。

東部トルコの骨格

アンカラから東へ延びる高原地帯の区間が、トルコ国鉄として最初の新規開設路線だ。

1925年、トルコ共和国政府の手による最初の建設区間が開業し、共和国の政策方針に基づく新規路線開業の口火を切る。アンカラから東進してイェルキョイ(Yerkoy)まで、203.5kmの区間である。

続いて1927年にはカイセリ(Kayseri)まで、さらに1930年にはシワス(Sivas)までの延長が完成する。なだらかな高原地帯が続く地形で、工事に困難を伴う区間が比較的少なかったとはいえ、共和国成立からわずか7年で600kmを越えるアンカラ-シワス間の開業にこぎ着けた建設スピードは相当に早い。

アンカラ-カイセリ-シワスを結ぶ区間はのちに、アンカラとエルズルム、さらにはソ連(アルメニア)国境に続くコーカサス幹線の一部を構成することになる。さらに、そのコーカサス幹線の一部としてだけではなく、分岐路線への接続という目的においても重要度の高い区間である。

カイセリで南に分岐する路線は終着点のウルクシュラ(Ulukışla)でコンヤ(Konya)から地中海沿岸への路線と合流している。この路線と接続することで、アンカラと地中海地方東部の重要都市、メルシン(Mersin)およびアダナ(Adana)とを短絡する役割を担うことになった。

また、シワスの東、チェティンカヤ(Cetinkaya)からはマラティア(Malatya)へ分岐する路線の建設が進められていた。この路線は終着駅のマラティアでアダナ方面から内陸に向けて建設が進んでいたディヤルバクル線と接続することになる。これら路線の開業後は、アンカラと東南部の都市を結ぶ列車も、アンカラ-シワス間を通過するようになった。

アンカラから東進する最初の建設区間は、トルコ東部の各地と連絡するにあたり、もっとも活用される見込みの高い区間だったと評価できる。共和国東部の鉄道網にとって、大黒柱となる区間とも言えよう。分岐路線と合わせた鉄道ネットワークを構築できるよう、続々と建設工事が進んでいった。

コーカサス幹線建設の停滞

写真:ユーフラテスの源流に沿って進むエルズルム付近。

エルズルム付近では、ユーフラテスの源流に沿って進む。

アンカラ-シワス間が1930年に開業したのちも、コーカサス幹線の建設工事は進められた。1936年にはチェティンカヤまで、1938年にはエルジンジャン(Erzincan)まで、そして1939年には東部トルコの要衝であるエルズルム(Erzurum)までの区間が開業した。

しかしエルズルムまで開業した後、コーカサス幹線の工事は停滞した。この先ソ連国境までは280kmが残っているが、アンカラからの建設区間の延長に比べれば「あと一歩」の距離に過ぎない。

さらにこの区間のうち、ほぼ中間点のサルカムシュ(Sarıkamış)からソ連国境まで123kmには、ロシアの手により1524mmゲージの鉄道が完成していた。アンカラから延伸されてきた鉄道と直通させるためにはゲージを変更する工事が必要であったものの、まったく新規に路盤から建設することに比べれば、はるかに容易な工事であったと思われる。

工事が停滞するに至った事情はさまざまに考えられるが、筆者の考えを述べてみたい。

ひとつは第二次世界大戦の勃発である。成立から間もない新しい共和国にとって本格的な参戦は選択肢となり得ない事情もあり、トルコは大戦末期まで中立を保った。しかし、建設資材や資金の調達といった分野で支障を来したことは想像に難くない。こうした環境の下、鉄道建設の優先順位を下げられたとしても不自然ではない。

建国の父であり、また共和国成立以来大統領の職にあったアタテュルクの死も、影響を及ぼした要因として無視しがたいと考えている。1938年11月10日、アタテュルクは急逝した。当時57歳である。

後任の大統領には、共和国成立以前から長年にわたりアタテュルクの片腕であったイスメット・イノニュ(İsmet İnönü)が就任する。この人事は一見「禅譲」であったようにも受け取られる。しかし、アタテュルクの死に先立つ時期、イスメット・イノニュとアタテュルクの関係は冷え切っており、1937年には1923年の共和国成立以来勤めてきた首相の地位を解任されたほどであった。

アタテュルクの後継者として大統領に就任したイスメット・イノニュは、表面上はアタテュルク以来の中立政策を維持し、第二次世界大戦末期までこれを維持する。この選択は当時のトルコのおかれた事情を考慮すれば、至極妥当なものであり、後年の視点からも十分評価に値するものだ。

しかし、イスメット・イノニュが就任したのちの1942年を境に、トルコの外交政策は転換した。中立を維持しつつも、ソ連と同調していたそれまでの外交政策が変更される。戦後まもなくトルコは西側陣営への帰属を明確にし、アメリカ合衆国寄りの政策を推し進めることになるが、この舵を取ったのはイスメット・イノニュであった。

コーカサス幹線が延長され、ソ連国境からの路線と一応の接続が実現されたのは1951年である。対米関係を重視していた時代には、ソ連と連絡するコーカサス幹線の延長工事が「お預け」にされていたように見えてしまう。

そして1962年になってようやく、サルカムシュ以東ソ連国境までのゲージが1524mmから1435mmに改築され、列車の直通ができるようになった。このころトルコの政治体制は、1960年のクーデターを経て、再び変化していた。

東南部路線

トルコ東南部において骨格となる路線は、アダナ方面から延伸されたディヤルバクル線である。この路線は後述する内陸と港湾の連絡をはかる目的も併せ持っている。しかしこの項では、アンカラ-東南部を結ぶ路線としての性格を中心に述べてゆく。

シワスの東、チェティンカヤでコーカサス幹線から分岐しマラティアに至る路線は、1937年に開業している。この時点ですでに、ディヤルバクル線の延長区間としてマラティア-ディヤルバクル(Diyarbakır)間および、その途中ヨルチャトゥ(Yolçatı)からエラズー(Elazığ)までの区間も開業していた。チェティンカヤ-マラティア間の開通により、アンカラと東南部主要都市間の鉄道連絡が確保されたことになる。

しかし、この後の延長工事は停滞気味であった。ディヤルバクルから先バトマン(Batman)までの開業は1943年、その先クルタラン(Kurtalan)までの延長区間は1944年の開業である。ディヤルバクル-クルタラン間は160kmであり、ディヤルバクルまでの建設スピードとは大幅な開きがある。

この路線は、バグダッド鉄道として建設された東南部の路線と比較的接近している。ディヤルバクルからマルディンまでは100km足らずだ。バグダッド鉄道として建設された路線の営業権を1948年まで維持していたトルコ南方鉄道との間で、競合路線の建設についてなんらかの取引があったことが推察されるが、確証は得られていない。現段階ではマラティア、エラズー、そしてディヤルバクルと、東南部のめぼしい都市が早い時期に鉄道連絡されてしまい、延長の必要性が弱まったことの方が、工事が停滞した理由として無難といえそうだ。

一方、東南部の路線のうち北側、エラズーから先の区間は、第二次世界大戦後まで延長が行われなかった。その後も1946年にバル(Palu)までの69.9kmを、1947年にゲンチ(Genc)まで62.7kmを開業させると再び「休眠」してしまう。ムシュ(Muş)までの開業は1955年、ヴァン湖西岸のタトヴァン(Tatvan)に鉄道が到達するのは、1964年まで待たねばならなかった。

ヴァン湖の東岸にあるヴァン市からイラン国境までの区間は、さらに時代を下った1971年に開業している。しかし、ヴァン湖南岸の区間は未だ手つかずのままだ。列車は連絡船によりヴァン湖を渡っている。